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gradiolus' blog

主に日々のまとめ。たまに映画と本のこと。

タロット、「女教皇」と「女帝」たちについて考えたこと

占い諸々 日記

かぐや姫の罪 (新人物文庫)


この本を読んでから考えた、タロットの女教皇と女帝にかんするあれやこれや。

前から木花咲耶姫と女帝について考えていたので、すこしは考えがまとまった気がする。

まだすこしグルグルしているが。


  • 今日はかぐや姫の前世を知り、かぐや姫がすなわち木花咲耶姫すなわち浅間菩薩であると知り、またマリアでもあると理解した。タロットでは女教皇と女帝を、聖女子・聖母マリアと見るし、またペルセポネとデメテルと見る。そしてかぐや姫木花咲耶姫だとも言えると私は考える。
  • 教皇は足元に月を踏んでいるが、これはかぐや姫もマリアもまた同じである。そしてみな処女懐妊をした。彼女たちは太陽神の母であり妻である。なので私は聖女子マリアであるとも言える女教皇を更にかぐや姫とも考える。また女教皇はペルセポネだが、冥府へ下ったペルセポネとかぐや姫は同じである。
  • かぐや姫は月の宮から異界である現世へ身をおとし、償いの期間を過ごし、月の宮へ帰って行った。異界のものを食べもした。ペルセポネもまた冥府へ身をおとし、異界のものを食べた。その土地のものを食べるとその土地の人になる。異なるのは、かぐやは不死の薬を舐め、月の宮へ帰った点か。
  • 教皇のカードは、聖女子マリアでありペルセポネであり、かぐや姫である。彼女らは処女であるので、女教皇としたい。 女帝のカードは、聖母マリアでありデメテルであり、木花咲耶姫である。子を育て神の妻となり、地母神の側面が強いためである。
  • 聖母・地母神の要素でいえば、さらに天照大御神のことを考えざるを得ない。天照大御神は太陽神そのものであると同時に、「大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)」とも呼ばれ、「太陽神に仕える最も尊い巫女」つまり「太陽神の妻」となるそうなので、女帝のカードに天照大御神の要素も見える。
  • 太陽神の子は太陽神であり、その妻は月の女神となる(マリアは月にのり天上天下を往き来する女神であり、また月が天に近い日に昇天した。かぐや姫はいうまでもなしに月に関連する。木花咲耶姫天照大御神の天孫邇邇芸命の妻でありその子の母である)。
  • タロットにおいて「太陽」といえば勿論太陽のカードである。その太陽のカードに描かれる子は、「愚者」が無垢へと戻ってきたことを意味する。つまり愚者は太陽神ないし太陽神の子であると言えるだろうか。
  • 愚者は「世界」へ到達する。「世界」に描かれているのは女性、もしくは両性具有のものと考えるのが一般である。多くのウェイト版の人々は両性具有的であり愚者も例外ではない。
  • また「富士浅間大菩薩事」のかぐや姫は、国司が彼女を追って月の宮へのうつる池へ身を投じ後に姫と国司は神仏となる。そのために、浅間大菩薩には男体女体の両性具有な見方がされる。
  • 太陽神の妻を太陽神自身とする向きもあり(天照大御神)、また「竹取物語」のかぐや姫はまばゆく光輝いている。、これは太陽神の妻であり母であり、また太陽神の妻を太陽神とすることの影響や名残が伺える。
  • 愚者に戻れば「愚者の旅」は大アルカナの21枚を0番の愚者が旅をすることである。愚者は太陽神ではないかと考えるが、神は「旅」をする。キリストしかり、かぐや姫しかり。「旅」は神が人々の心を救うために、その心を理解するためである「旅」と、人々の罪を背をって流される「旅」がある。
  • 「旅」には数々の試練や苦悩があり、前者の旅ではその過程で理解を深める。後者の旅では、それによって人々の心が清められる。
  • また人の罪を背負った旅は満了すると帰ることができる。帰る、とは元の世界へ帰ることであり、神になることと言える。つまり愚者の旅は神の旅であり、世界へ到達して、愚者は人々の心を理解し、また救ったため、また神に戻ったのだと言える。
  • なぜここで愚者のはなしになったかというと、かぐや姫もまた神の旅をしたためであるから。老夫婦の元に月の宮からくだり、子として育まれる期間は彼女にとっての祓いの旅である。背負った罪を清めるための、償いである(流刑などとよくいうが、罪は旅もしくは神に託され流されていくものとされる)。
  • そのような側面が旅にはあるため、愚者の旅もまた同質の旅ではないかと考えられる。
  • とすると愚者の旅は一体なんなのか? 愚者は連続して女教皇と女帝とにであい、後に恋人のカードに至る。女教皇は神の妻になる前であり、女帝は神の妻で母である。そのあとに恋人がくるのは?
  • 恋人達のカードには蛇が描かれるが、蛇は処女懐妊の象徴的な存在であり、また「肉」のメタである。カードには天使が描かれ、受胎告知では天使がその任を行う、また不義を疑った夫ヨセフのもとにも天使がつかわされる。つまり神の祝福がある。恋人達のカードは処女懐妊が通知された場面に見える。
  • 聖女の視点からみれば、月から下界へとおりたった女教皇、その次に処女懐妊・受胎告知の恋人達のカードがきて、神の母であり妻となる女帝がくる順番でも良いような気がしてくる、
  • しかし愚者の旅は、太陽神の子、および太陽神自身の旅物語であるから、その母の物語はさして重要ではないだろう。それは聖書にはさしてマリアに関する記事がないが、外典には多くあるらしいことと同じであると思える。
  • 「世界」に描かれる人物は、サッシュをまとっているが、それは羽衣に見える。羽衣はかぐや姫がまとったり、天女がまとったりした、異世界の衣である。羽衣をまとうことで、彼女らは異世界へと帰ることができるのである。サッシュをまとっている姿は、その人が神の世界へ帰ったことを意味するだろう。
  • 書き忘れたけれど、デメテル天照大御神も隠れてしまい、作物が育たなくなった期間がある。共に日食や、日照の足らなさによる不作・飢饉の時期をあらわすのではないだろうか。なので私はタロットにおいて二者を同一視し、やはり女帝としたい。神の妻であり、母であり、地母神であることも含め。
  • ペルセポネは伊邪那美命とも言えるように思える。伊邪那美命も根の国へゆき、探されるが、根の国の食べ物を口にしたため、容易に地上へ帰れなくなっている。また伊邪那美命の神の妻であり母である。
  • ペルセポネと月とでいえば、ペルセポネは冥府の女神であり死と再生の女神である。月は満ち欠け、生死をあらわす。ペルセポネはアドニスを育てた養母であるため、母の側面ももつ。またペルセポネとデメテルは同一視され、ペルセポネが若い頃、デメテルが母の頃とされるようだ。
  • とすれば、益々、女教皇から女帝のラインの母子の絆であるとか、ひとりの女性としての成長、側面について、興味深いく感じる。娘と母とは常に一体であり、その絆は切り離すことができず、娘はいずれ母となることが示唆されている。
  • 月と水、そして女性は大変つながりがあり、月は生死の繰り返しのあらわれである(月は満ちはじめ(誕生)、満月になり(成熟)、欠けて(老い)、新月となる(死ぬ)も、また満ちはじめる)。母と娘との絆と成長により、永久に、生死は繰り返される、生命は生まれ育まれるていくことが伺える。

以下私のグルグルした考え。
私自身に関する葛藤のアレやこれや。

  • 私のおそろしいまでの地母神へのこだわりは何なのだろうか? 私はデメテルが娘を探す「旅」(これもまた神の旅だ!)が好きなのだけれど、これまで自分が感情移入しているのはペルセポネだとおもっていたが、デメテルのほうだと気づいた。この拘りは自身の愛情飢餓のあらわれだと思っていたのだが…?
  • このデメテルの旅を神の旅だとかんがえ、かぐや姫木花咲耶姫らの旅と重ね合わせるならば、それによって私の心は救われたと感じているのだろうか? それとも人々の罪を背負い、人々のために祓いをするものになりたいと思っているのだろうか?
  • デメテルは失意により作物を枯らしてしまうが、それは罪になるだろうか? 彼女の行いというより、彼女を悲しませたために行われた結果であり、しかし結果は彼女が背負うことになるのではないのか?しかも旅の末に娘を完全に取り返せないという苦難。罪のために苦渋を舐める「旅」そのものに思える。
  • 私の常々の「ひとの為になりたい」という思いはここにつながってくるのか?
  • 私は非常な名誉的な野心とともに、ひとの為になりたい、ひとの心を救いたいという救済的な野心とを持ち合わせて生きているので、後者の野心が大変この旅物語を好む背景なように思える。